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2024年4月29日 (月)

日曜日のお菓子とバスティアニーニ

日曜の朝、私たちはバールで朝食をとった。

このバールはDuomoの近くにありながら、
素朴な店構えからして、観光客の姿は見られない。

しかし、ひっきりなしにセネーゼがやってきては、
ドルチェの包みを手に、去っていく。

イタリアでは、日曜のランチの後に、
ボリュームあるお菓子を食べる習慣があるとのこと。

このバールの奥ではお菓子も作っていて、
バールとしての機能より、お菓子で支持されている感がある。

「ねえ、ここかしら? 
 エットレ・バスティアニーニが働いていたお店?」

エットレ・バスティアニーニとは、
かつてスカラ座やメトロポリタン歌劇場、
ウィーン国立歌劇場など
世界を股に活躍をしたバリトン歌手で、
マリア・カラスとも共演している。

そんな彼は、歌手になる前、
シエナのpasticceria(お菓子屋)で働いていた。

このバールは、彼の生家の近くにあるため、
「もしかしたら?」という思いが浮かんだ。

バールで会計をするマッシモが、
店の女性に尋ねると、
エットーレ・バスティアニーニの時代には、
この店はなかったという。

「エットレ・バスティアニーニの時代、
 シエナの街中には2つの店しかありませんね。
 ナンニーニかヴァンニ。
 ナンニーニとは考えられない・・・
 彼の生家のすぐ傍にあるヴァンニでしょう」

私たちは、この店から10分ほどの距離にあるエットレ・バスティアニーニの生家、
そして、かつて存在していたヴァンニの店跡を訪れた。

後日、友達のクララ宅を訪れ、
エットレ・バスティアニーニの生家を訪れた話をすると、バスティアニーニの周年記念イベントの責任者として動いていた彼女は、彼にまつわるエピソードを語ってくれた。

「エットレ・バスティアニーニはね、
 生涯、自分の父親を知る事はなかったのよ。
 母親は娼婦だった、とも言われているの。
 貧しかった彼は小さな頃から菓子屋で働き、
 自転車でお菓子の配達をしていたのよ。
 歌いながらね!
 そんな彼の歌声を聴いたシエナに住む音楽に長けたお金持ちが、彼を歌の世界へと掛渡をしてくれたのよ」

彼はスカラ座でバレリーナをしていたマヌエーラと恋に落ちる。

歳の差20歳。

バスティアニーニは海外での公演中、
喉の痛みから医者を訪れると、咽頭癌の診断を受ける。

このことは、晩年まで、医者以外の誰にも知られる事はなかった。

日本には1963年(当時41歳)と1965年(当時43歳)に来日しているが、その時は既に、癌におかされていた。

外科手術を施せば生き延びる事は出来るが、
歌手生活は閉ざされる。

「バスティアニーニはね、(歌は人生だ!)と言って、
 声帯を失う手術を拒んだの。

 44歳。まだ、若かった・・・」

そう言って、クララは涙ぐんだ。

貧しい家に育ち、
小さな頃から菓子屋で働き、
歌の世界に飛び込み、
20歳離れたバレリーナと恋に落ち、
そして、癌の苦しみを内に秘めながら歌手活動を続け、最後に恋人に見守られ、ガルダ湖で眠りについたバスティアニーニ。

彼は、生まれ故郷のシエナと深いかかわりがあった以上に、コントラーダの「パンテーラ(ヒョウ)」地区と深いかかわりを持ってた。

シエナには17のコントラーダ(地区)があり、
シエナ人は、コントラーダとの結束を生涯大切にする。

7月2日と8月16日のパリオ祭とは、そんなシエナ人達の、自分のコントラーダへの忠誠と誇りが露わになる祭り。

これから、パリオ祭に関する投稿も始めなければ・・

世界遺産に登録されたたシエナの街。

街の魅力を、そこに住む人の生活からもお伝えしていきたく思います。

Rigoletto: Act II:
No, vecchio t'inganni … Si, vendetta より

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