赤倉温泉にて
「あらっ、星が一つだけ見えますね」
「えっ?どこですか?」
「ほら、あそこに…」
広い天空は雲に覆われ、月が見え隠れする中、
私達を見つめるような低い位置で星が一つ輝いていた。
「願い事をすると、叶いそうですね!」
といって、私たちは、笑った。
湯船に体を沈め、その後、上半身を秋風にさらし、
火照った体を冷やすためデッキチェアーでボーっとしては、また湯船に戻る。
1時間半の間、
何人の女性と、こうやって静かに話を交わしただろう。
やっと、私が解けてきた。
心と頭が解放されてきた。
シエナという田舎の土地に13年もいると、
私は、その土地の人らしくなってきた。
自分でもそう思うし、
周囲の人も、そう認めているような気がする。
すると、そこで送る生活習慣、環境、
人とのコミュニケーションが私の常識となるので、
日本に降り立ってから2日くらいは、妙な格闘を抱くことになる。
「この暑い中、女性はなぜ、長袖に長い手袋を身にまとっているのだろう?まるで、特殊な宗教団体のようではないか?イタリア(世界)は違うよ・・・」
「なぜ、涼しく感じる時間帯でも、冷房が強く効いているのだろう?風邪をひいてしまうじゃないの!日本って、節電しなくちゃならないんじゃないの?イタリア(世界)は違うよ・・・」
「なぜ、日本の人は、食べることばかりを話題にするのだろう・・・?イタリア(世界)は、違うよ・・・」
自分が正しいという視点から他者を見る。
これはまさしく、『自己原理主義』
これがある限り、他国や他人と出会ったときに、
自分と違う観点から、相手を小さな敵に感じてしまう。
本来、人恋しいのに、
私は自分への誇りが高いがゆえに、
こうして敵を作ってしまう傾向がある。
昔に付き合った男性や先輩から
「お前は、もっとこうしなければダメだ・・・」と
言われることが多かったが、シエナでの生活で、
大分、逞しくなった。その反動で、
「私は、私の意見を持っているぞ!
今の生き方を、とやかく言ってくださんな!」
という抵抗だと思う。
イタリアから日本に戻ったばかりの時、
もしくはその逆で、日本からイタリアに戻ったばかりの私は、「自己原理主義」の虫のおかげで、穏やかに過ごすことができない。
愚痴の多い私に、親は、そしてパトリッツィオは、
寛容すぎるほどの愛で包んでくれる。
だから、帰ってきたばかりの頃は、
正直言って、親以外に会う気はしない。会えない。
「気持ちの整理をしなければ・・・」と
湯船で考えようと思っていた。
でも、こうして、裸の状態で、
同じ湯船の人と穏やかに話をするたびに、
温かいものが湧いてきた。
蕎麦の花がきれいだった、とか、風が気持ちいい、
という会話をしている相手に好感を持ち、
日本が好き、という感情にシフトしてきた。
一生懸命生きていて、
ささやかな幸せに浸っている人に対して、
どうして、私は愚痴を言ってきたんだろう・・・
恥ずかしさと嬉しさで、気持ちが火照っている。
露天風呂から出て、ポロっと垢が落ちたような、
今日この頃です。
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