クリスマスの後で
今日は
愛猫のティティです。
やっとクリスマスが過ぎ去ってくれました。
イタリアのクリスマスは家族揃って温かく過ごすもの。
そんな日に、一人で過ごすということは、とても寒々としたことであり、kiyomiさんには同情と施しが向けられます。
「kiyomi、もし良かったら、私の家に来てもいいわよ」とのアリアンナの誘い。
友人であるアリアンナとお茶をするのは楽しいですが、彼女の家に集まる見も知らぬ親戚達に、どうして交わることができましょう。
身内の話についていけず、居心地の悪さに動揺するだけです。
クリスマス当日の昼、パトリッツィオから電話が入ります。
「おめでとう kiyomi。
ブロージ氏にアンナ、そしてスカルペ・・・・
朝からおめでとう祝福の電話が鳴り響いて、
もう大変だよ!ところでKiyomiは何してるの?」
「おめでとう。特に何もしてないわよ」
Kiyomiさんの周辺に流れる静かな空気に気づき、
今までのボリュームを下げるパトリッツィオ。
「・・・き、きっと、何か食べてるな!」
「実はそうなの。だから、後でね」
涙がこみ上げ、喉が詰まる前に電話を切ります。
この日、家族に会いたいのに会えない、その切なさを悲しんでいるわけではないのです。
周りから、「寂しそう」「なんだか寒そう」と同情の目で見られること。それが傷つきます。
19歳の頃、顔の病気で入院していましたが、病棟での思い出は明るいものばかり。
顔が変形していたkiyomiさんを、皆、普通に迎え入れ、その自然な空気の中、穏やかな気持ちで過ごせました。
問題は、病院の外。
「可哀想に」と一般社会に同情される途端に、「劣った人」と烙印を押され、自分自身が惨めであると否応にも認めなければならない、その格闘が大変だったのです。
本当に悲しい時、慰めてもらいたい時がある。しかしもう一方では、本人は普通でいるのに、周りから同情の目で見られ、惨めな気持ちに誘導されていく時がある。
老人大国、そして離婚率の上昇で、
ますます、一人暮らしの人が増えていくことでしょう。
巷にお祝いムードが流れる中、
あえて、「私は一人で過ごしてますよ!」と本音を公言したい。
すると、どこからか
「あ~、実は私もなんです!」
という共感の声が聞こえてきそう。
モノや生活スタイルは自分を豊かにしてくれない、と気付き始めた21世紀のどこか疲れた資本社会。
消費社会から絆社会への回帰を求めるには、正直な気持ちを綴る勇気も必要かな?と思う今日この頃です。
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